世の中いとわずらはしく、はしたなきことのみまされば、
せめて知らず顔にあり経ても、これよりまさることもなしやと思しなりぬ。
かの須磨は、昔こそ人の住み処などもありけれ、
今はいと里ばなれ心すごくて、海人の家だにまれになど聞きたまえど・・・
世の中がたいそう面倒に、居心地の悪いことばかりが殖(ふ)えてきますので、
努めて平気を装って行くにしても、今にこれ以上の目に遭うようなこともと、
思うようにおなりになりました。
あの須磨は、昔こそ人の住家(すみか)などもありましたものの、
今はたいそう人里を離れた、荒れ果てた感じになっていまして、
海人の家さへ稀でありました
源氏物語 明石より
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父であった桐壺院が崩御すると、権威は右大臣方に移った。
右大臣・弘徽殿方の攻撃はいよいよ激しくなるだろう。
様々な波紋を回避するために、都を後に摂津国(兵庫県)
須磨に退去するのは源氏、二十六歳の春であった。

能楽『玄象(絃上)』の舞台は須磨。
源氏物語によれば漁師の家さへもまばらな人里は離れた寂しい海岸です。
琵琶の名手師長(ふじはらもろなが)は舟で唐へ向かうためにこの地にやってきます。
舞台は師長の従者の謡語りからはじまります

遥かに遠い海のかなたに
舟を進めるのだが、
目指す中国はいったいどのあたり
なのだろう
八重の汐路を行く船の。
八重の汐路を行く船の
唐土(もろこし)は何処(いずく)なるらん
師長「そもそもこれは
太政大臣師長とは、
我が事なり」
・・・と、師長が舞台へ登場します
従者「さてもこの君天下(てんが)に隠れなき琵琶の、御上手にて御座候が。
入唐(につとう)の御望み、ましますにより。
このたび思し召し立ち道すがら名所の月をも、ご覧ぜん為に、
只今津の国 須磨の浦に、御下向(げこう)にて候(そうろう)。」
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能楽「玄象(絃上)」の能楽関係の解説書を何冊か読み、ネットを検索したところ、説話が混乱している部分がいくらかありました。ここに図書館で入手しやすい書物を中心に整理しておきます。
能楽「玄象」を製作するにあたり、作者はきっと、こんなお話しのこんな部分を取り出したのだと、楽しんで調べました。
まず、<師長もろなが>に関してですが、
藤原師長。左大臣頼長の子。
音楽の名手で妙音菩薩を信仰し、その邸内に妙音菩薩を祭った妙音院を持っていたのでこの名がある。(平家物語全注釈 鹿谷 語釈 より)
●師長が神泉苑にて雨乞いの為に琵琶を弾く
『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第十八にありますが、一般に入手は難しいので、ネット電子図書館から書き出します。
御前の管絃の座には、妙音院太政大臣師長公琵琶役、此大臣は琵琶の上手にて、神慮にも相応し、無双の勝事多かりけり。欲界の天人も度々天降給へり。されば一年蒼天雲を払ひ赤日旬を渉て、天下旱魃あり。神泉苑にて請雨経の秘法を行れ、其外山々寺々の有験智徳に仰て、御祈祷有けるに、無其験、畿内遠国忽損じ、人民百姓歎悲けるに、此師長公宣旨を蒙、日吉社大宮の神前にて琵琶を調べ、さま/゛\秘曲を弾じ給ひけるにこそ陰雲速に起て甚雨頻に降けれ。図知ぬ霊神曲を感と云事を、さてこそ異名には、雨の大臣とは申けれ。按察使大納言資賢は笛の役也。彼笛は紅葉と云名物なり。
この画面右のリンク→日本文学電子図書館→源平盛衰記→源平盛衰記巻十八 P0440
「竜神が感動して雨を降らせた」とは書いてありませんが、「雨の大臣」の出典はここかと思われます。
(「竜神が感動した」は「能楽・玄象(絃上)」が出典で在る可能性と、現在消失してしまった伝承本由来が考えられます。)
●師長に関して、青山之沙汰以外にも平家物語にお話があります。
大臣流罪 巻第三 師長が東方へお流れになるとき、熱田の明神(今の名古屋市南区熱田)に参詣した時のこと
或時当国第三の宮熱田の明神に参詣あつて、其の夜神明法楽(しんめいほうらく)の為に、琵琶を引き(儘)、朗詠し給へ・・・熱田の明神にご参詣になってその夜神慮をお慰めするために、琵琶を弾き、和歌を朗詠されたところ
神明感応堪へずして、宝殿大きに振動す。神は感応極まってか、宝殿が大きく揺れた。
大臣師長は平家の悪行が無ければこの瑞相(ありがたい御しるし)は拝することは無かったろう、と
大臣感涙をぞ流されける。
師長は他に 平家物語 巻第一 鹿谷ししのたに にちらっと名前は出てきます。
●琵琶『青山』は『平家物語「青山之沙汰」』から
琵琶の名前として(平家物語の)他に所見がない。
『延喜本』『盛衰記』に、この琵琶の音に感じて天人が青山の梢に下ったので廉承武が琵琶の名としたと記す。平家物語全注釈(中巻)巻七経正都落語釈より
〜全注釈解説によると平家物語系以外には「青山」という琵琶の話は(残ってい)ないようです。
●琵琶の名器『玄象』についてもっともその名をはやく記録したのは清少納言の『枕草子』枕草子全注釈より
無名という琵琶の・・・
御前にさぶらふ物どもは、みな琴、笛もめずらしき名こそつきてあれ。
琵琶は玄象、牧馬・井手・渭橋・無名など。
枕冊子全注釈では九十七。全集(枕草子)では八九、大系(枕草子)では九三です。
この段中に玄象は出てきますが、此処には青山はありません。
→玄象琵琶為鬼被取語 其の参 に記載してあります。
●玄上が無くなっていたという記載は『徒然草第七十段』にあり
元応の清暑堂の御遊(ぎよいう)に玄上は失せにしころ、
菊亭の大臣、牧馬を弾じたまひけるに・・・
新潮日本古典集成(10)徒然草には、清暑堂の御遊は後醍醐天皇の即位に際して大嘗会において清暑堂の御神楽で催された。元応元年ではなく、文保二年(1318)とあります。
徒然草全注釈には『続史愚抄』よりの記載あり正和五年(1316)御所より盗まれる。
文保三年(1319)見つかる。(徒然草本文には「玄上は無かった」ということしか書いてありません。)
●玄象は『今昔物語集』では羅生門で博雅三位が鬼より返してもらった
●その他の玄象→朱雀門の鬼、玄上を盗み取りし事 江談抄より 付 古今著聞集
玄上は朱雀門の鬼が盗み、祈祷をして返させた 江談抄
玄象は朱雀門の鬼が盗み 祈祷をして返させた 古今著聞集
火災の時、人が持ち出さないのに飛び出ていた昔より霊物にて、内裏焼亡の時も、人の取り出さぬ前に飛び出でて、
大庭(おほぼ)の椋(むく)の木の末にぞかかりける。(十訓抄)
「百錬抄」では「式御曹司の東垣よりみつかった」とあります。
下手な人が弾いても、鳴らなかった・・・
十ノ七十 琵琶玄象の腹立ち (十訓抄)
十訓抄のお話しは→玄象琵琶為鬼被取語第二十四 其の参 の記事にまとめてあります。
そのほかには・・後日別記事に書きますが、能楽玄象の舞台は須磨。源氏物語で訳あって源氏が身を寄せる寂しげで美しい海辺の須磨で、源氏の君はドラマティックに龍神に逢うのです。
できるだけ正確に調べて記載していますが、間違いあればコメントにご遠慮なくご指摘ください。
『忠度都落』が和歌佳話であるのに対して、これは音楽佳話である。
注意しておくこべきことは、語りもの系では、とくに青山について詳細に書いて『正節』では
「青山之沙汰」という一句としているということである。
それは語りもの系において琵琶という楽器について述べた一節を
用意しようとした操作によるものといえるのである。〜平家物語全注釈より。
平家物語は種々の伝承本があり、それを「読みもの系」と「語りもの系」に分けることがあります。
「語りもの系」には平家物語が琵琶法師の演奏する「琵琶にのせて語りつがれていた物語」
として強く存在したという経緯を含みます。(筆者注)
では、経正都落の一部でもある、琵琶青山(せいざん)のお話をはじめましょう・・
『平家物語 巻第七 青山之沙汰』原文・現代語訳は全注釈から

左画像は<図説 日本の古典 9 >
平家物語 表紙 集英社 詳細は記事末尾
以下解説は平家物語全注釈補注より
転手:琵琶の頭部を貫き、絃を捲くもの。
甲:琵琶の槽(下面の円盤)をいう。一枚で作るを直(ひた)甲、二枚あるいは三枚で作るを剥甲(はぎこう)。
紫藤:琵琶の材 『吉野吉水院楽書』に木馬は紫藤など見える。
撥面:琵琶の表面の絃と直角交叉する帯状の部分。ここに図をほどこす。
青山には夏山の緑の木の間から有明の月の出るところが描かれていたとのこと・・
彼の青山と申す御琵琶は、昔仁明天皇の御宇、嘉祥三年の春、
掃部頭貞敏渡唐の時、大唐の琵琶の博士廉妾夫に逢ひ、
三曲を伝へて帰朝せしに、玄上・獅子丸・青山、
三面の琵琶を相伝して渡りけるが、竜神や惜しみ給ひけん、
浪風荒く立ちければ、獅子丸をば海底に沈め、今二面の琵琶を渡して、
吾が朝の御門の御宝とす。
次回にひき続き、平家物語 経正都落 をすすめます。
能楽「玄象」は観世以外では「絃上」とされます。有名な琵琶の名前です。
さて、暇申し出でられけるに、数輩の童形・出世者・坊官・
侍僧に至るまで経正の袂にすがり、袖を控えて、
名残を惜しみ涙を流さぬはなかりけり。
其の中にも経正の幼少の時、小師でおわせし大納言法印行慶と
申すは、葉室大納言光頼卿の御子なり。余りに名残を惜しみて、
桂河の端まで打ち送り、さてもあるべきならば、
それより暇乞うて泣く泣く別れ給ふに、法印かうぞ思ひ続け給ふ。
あはれより老木若木も山桜おくれ先だち花は残らじ
経正の返事には、
旅衣よなよな袖をかた敷きて思へばわれは遠くゆきなん
さて捲いて持たせられたる赤旗ざつとさし揚げたり。
あそこここに控えて待ち奉る侍共、あはやとて馳せ集まり、
百騎ばかり鞭をあげ、駒を早めて、程なく行幸に追い付き奉る。
平家の敵方、源氏の木曾義仲(きそよしなか)は越前の国府に着いたが、
都に攻め上るに当って、その途中の比叡山の僧徒を敵にまわさないため、
延暦寺に牒状(ちょうじょう)を送った。
その状は保元・平治以来、権勢をほしいままにした平家の悪行を書きつらね、
平家追討に合力されたいと懇願したものであった。
延暦寺では衆議の結果、源氏に同心するとの返牒を送ってきた。
ところが平家はこのことを夢にも知らず、
従一平宗盛(たいらむねもり)公以下、一門の公卿らが連署し、
延暦寺を平家の氏寺に準じ、日吉社(ひえのやしろ)を氏社とすることを請う牒状を送ったが、
時すでに遅く、もやは聞き入れる僧徒はいなかった。
寿永二年(1183)七月二十二日の夜半、(平家一門の拠点)六波羅は大騒ぎであった。
北国から攻め上った木曾の軍勢五万余騎が、比叡の東坂本にみちあふれており、
六千余騎の先陣は比叡山に駆けのぼった。三千の衆徒も源氏に同心したので、
すぐにも都へ攻め入るであろうと申し立てる者があったのである。
その僅か三日後、平家はいよいよ『運尽きて』都を落ちてゆくのであるが、
その際、六波羅をはじめ一門の公卿・殿上人の邸宅二十余か所、それ以下の人々の家々、
また、京の白川の民家四五万件に一度に火をかけて焼き払ってゆくのである。
京の都は唯々、見渡す限り火に包まれた。
では、平家一門の武将達が都を落ちるさまを語ったくだりから
『平家物語 巻第七 経正都落 』をはじまましょう・・

画像は日本の古典 集英社 箱表紙(詳細後述)、本文及び現代語訳は平家物語全注釈より
修理大夫経盛の子息皇后宮亮経正、
幼少にては仁和寺の御室の御所に童形にて
候はれしかば、かかる怱劇の中にも其の御名残
きつと思ひ出でて、侍後六騎召し具して仁和寺殿へ
馳せ参り、門前にて馬より下り、申し入れられけるは、
「一門運尽きて今日既に帝都を罷り出で候。
憂き世に思ひ残す事とては、ただ君の御名残ばかりなり。