『忠度都落』が和歌佳話であるのに対して、これは音楽佳話である。
注意しておくこべきことは、語りもの系では、とくに青山について詳細に書いて『正節』では
「青山之沙汰」という一句としているということである。
それは語りもの系において琵琶という楽器について述べた一節を
用意しようとした操作によるものといえるのである。〜平家物語全注釈より。
平家物語は種々の伝承本があり、それを「読みもの系」と「語りもの系」に分けることがあります。
「語りもの系」には平家物語が琵琶法師の演奏する「琵琶にのせて語りつがれていた物語」
として強く存在したという経緯を含みます。(筆者注)
では、経正都落の一部でもある、琵琶青山(せいざん)のお話をはじめましょう・・
『平家物語 巻第七 青山之沙汰』原文・現代語訳は全注釈から

左画像は<図説 日本の古典 9 >
平家物語 表紙 集英社 詳細は記事末尾
以下解説は平家物語全注釈補注より
転手:琵琶の頭部を貫き、絃を捲くもの。
甲:琵琶の槽(下面の円盤)をいう。一枚で作るを直(ひた)甲、二枚あるいは三枚で作るを剥甲(はぎこう)。
紫藤:琵琶の材 『吉野吉水院楽書』に木馬は紫藤など見える。
撥面:琵琶の表面の絃と直角交叉する帯状の部分。ここに図をほどこす。
青山には夏山の緑の木の間から有明の月の出るところが描かれていたとのこと・・
彼の青山と申す御琵琶は、昔仁明天皇の御宇、嘉祥三年の春、
掃部頭貞敏渡唐の時、大唐の琵琶の博士廉妾夫に逢ひ、
三曲を伝へて帰朝せしに、玄上・獅子丸・青山、
三面の琵琶を相伝して渡りけるが、竜神や惜しみ給ひけん、
浪風荒く立ちければ、獅子丸をば海底に沈め、今二面の琵琶を渡して、
吾が朝の御門の御宝とす。
次回にひき続き、平家物語 経正都落 をすすめます。
能楽「玄象」は観世以外では「絃上」とされます。有名な琵琶の名前です。
さて、暇申し出でられけるに、数輩の童形・出世者・坊官・
侍僧に至るまで経正の袂にすがり、袖を控えて、
名残を惜しみ涙を流さぬはなかりけり。
其の中にも経正の幼少の時、小師でおわせし大納言法印行慶と
申すは、葉室大納言光頼卿の御子なり。余りに名残を惜しみて、
桂河の端まで打ち送り、さてもあるべきならば、
それより暇乞うて泣く泣く別れ給ふに、法印かうぞ思ひ続け給ふ。
あはれより老木若木も山桜おくれ先だち花は残らじ
経正の返事には、
旅衣よなよな袖をかた敷きて思へばわれは遠くゆきなん
さて捲いて持たせられたる赤旗ざつとさし揚げたり。
あそこここに控えて待ち奉る侍共、あはやとて馳せ集まり、
百騎ばかり鞭をあげ、駒を早めて、程なく行幸に追い付き奉る。
平家の敵方、源氏の木曾義仲(きそよしなか)は越前の国府に着いたが、
都に攻め上るに当って、その途中の比叡山の僧徒を敵にまわさないため、
延暦寺に牒状(ちょうじょう)を送った。
その状は保元・平治以来、権勢をほしいままにした平家の悪行を書きつらね、
平家追討に合力されたいと懇願したものであった。
延暦寺では衆議の結果、源氏に同心するとの返牒を送ってきた。
ところが平家はこのことを夢にも知らず、
従一平宗盛(たいらむねもり)公以下、一門の公卿らが連署し、
延暦寺を平家の氏寺に準じ、日吉社(ひえのやしろ)を氏社とすることを請う牒状を送ったが、
時すでに遅く、もやは聞き入れる僧徒はいなかった。
寿永二年(1183)七月二十二日の夜半、(平家一門の拠点)六波羅は大騒ぎであった。
北国から攻め上った木曾の軍勢五万余騎が、比叡の東坂本にみちあふれており、
六千余騎の先陣は比叡山に駆けのぼった。三千の衆徒も源氏に同心したので、
すぐにも都へ攻め入るであろうと申し立てる者があったのである。
その僅か三日後、平家はいよいよ『運尽きて』都を落ちてゆくのであるが、
その際、六波羅をはじめ一門の公卿・殿上人の邸宅二十余か所、それ以下の人々の家々、
また、京の白川の民家四五万件に一度に火をかけて焼き払ってゆくのである。
京の都は唯々、見渡す限り火に包まれた。
では、平家一門の武将達が都を落ちるさまを語ったくだりから
『平家物語 巻第七 経正都落 』をはじまましょう・・

画像は日本の古典 集英社 箱表紙(詳細後述)、本文及び現代語訳は平家物語全注釈より
修理大夫経盛の子息皇后宮亮経正、
幼少にては仁和寺の御室の御所に童形にて
候はれしかば、かかる怱劇の中にも其の御名残
きつと思ひ出でて、侍後六騎召し具して仁和寺殿へ
馳せ参り、門前にて馬より下り、申し入れられけるは、
「一門運尽きて今日既に帝都を罷り出で候。
憂き世に思ひ残す事とては、ただ君の御名残ばかりなり。
能楽『玄象』(観世以外は「絃上」)
は背景に「平家物語」の経正都落(つねまさみやこおち)
青山之沙汰のお話があります。 (巻第七)
この都落にはいる前に(実は私も部分的にしか読んだことが無い)
平家物語のあらすじからはじめましょう。
平清盛が太政大臣に昇りつめたのは仁安二年(1167)、
そして下関・壇ノ浦の合戦で平家一門の多くが海の藻屑と消えたのは元歴二年(1185)。
わずか二十余年の間に繰り広げられたそれぞれの栄耀と滅亡、
それが平家物語だと云われます。(経正は忠盛の孫、清盛の甥です)
忠盛┬清盛
├経盛──┬経正
├教盛 ├経俊
└忠度 └敦盛
六波羅殿の御一家の君達といひてンしかば、
花族も栄耀を面をむかへ、肩を並ぶる人なし。 (禿髪かぶろ)
ろくはらどのの ごいつけの きんだちといひてんしかば
かそくもえいようもおもてをむかへ、かたをならぶるひとなし
六波羅殿(平清盛)のご一家の公達といえば、堂上家の名門たる花族や英雄であろうと、
肩を並べ、顔と顔を合わそうとする者はない。(全注釈訳)
とまで云われた平家一門
保元元年(1156年)、鳥羽院の崩御をきっかけに、
天皇家や摂政家、武家などの内部対立が噴出、保元の乱が勃発。
それは後に「ムサノ(武者)世」の到来と理解される、時代の一大換点となるのです。
さて、今回で今昔物語集の源博雅と玄象のお話しは最後です。
末尾に「琵琶玄象の腹立ち」載せます。
とにかく進めましょう・・・
其玄象于今公財トシテ、世ノ伝ハリ物ニテ内ニ有リ。
此玄象ハ生タル者ノ様ニゾ有ル。
弊ク弾テ不弾負セレバ、腹立テ不鳴ナリ。
亦塵居テ不巾ル時ニモ、腹立テ不鳴ナリ。
其気色現ニゾ見ユルナリ。
在ル時ニハ内裏ニ焼亡有ルニモ、人不取出ト云ヘドモ、
玄像自然ラ出テ庭ニ有リ。
此奇異ノ事共也、トナム語リ伝ヘタルトヤ。
先回のおはなしは・・・
清涼殿で宿直(とのい)をしていた源博雅(みなもとひろまさ)は先日無くなったはずの、有名な琵琶、玄象(げんじょう)の音を南の方角に聞いた。
音をたどって朱雀門(すざくもん)まで来たのですが・・・
尚同ジ様ニ南ニ聞ユ。然レバ、朱雀ノ大路ヲ南ニ向