平家の敵方、源氏の木曾義仲(きそよしなか)は越前の国府に着いたが、
都に攻め上るに当って、その途中の比叡山の僧徒を敵にまわさないため、
延暦寺に牒状(ちょうじょう)を送った。
その状は保元・平治以来、権勢をほしいままにした平家の悪行を書きつらね、
平家追討に合力されたいと懇願したものであった。
延暦寺では衆議の結果、源氏に同心するとの返牒を送ってきた。
ところが平家はこのことを夢にも知らず、
従一平宗盛(たいらむねもり)公以下、一門の公卿らが連署し、
延暦寺を平家の氏寺に準じ、日吉社(ひえのやしろ)を氏社とすることを請う牒状を送ったが、
時すでに遅く、もやは聞き入れる僧徒はいなかった。
寿永二年(1183)七月二十二日の夜半、(平家一門の拠点)六波羅は大騒ぎであった。
北国から攻め上った木曾の軍勢五万余騎が、比叡の東坂本にみちあふれており、
六千余騎の先陣は比叡山に駆けのぼった。三千の衆徒も源氏に同心したので、
すぐにも都へ攻め入るであろうと申し立てる者があったのである。
その僅か三日後、平家はいよいよ『運尽きて』都を落ちてゆくのであるが、
その際、六波羅をはじめ一門の公卿・殿上人の邸宅二十余か所、それ以下の人々の家々、
また、京の白川の民家四五万件に一度に火をかけて焼き払ってゆくのである。
京の都は唯々、見渡す限り火に包まれた。
では、平家一門の武将達が都を落ちるさまを語ったくだりから
『平家物語 巻第七 経正都落 』をはじまましょう・・

画像は日本の古典 集英社 箱表紙(詳細後述)、本文及び現代語訳は平家物語全注釈より
修理大夫経盛の子息皇后宮亮経正、
幼少にては仁和寺の御室の御所に童形にて
候はれしかば、かかる怱劇の中にも其の御名残
きつと思ひ出でて、侍後六騎召し具して仁和寺殿へ
馳せ参り、門前にて馬より下り、申し入れられけるは、
「一門運尽きて今日既に帝都を罷り出で候。
憂き世に思ひ残す事とては、ただ君の御名残ばかりなり。
修理大夫経盛の子息皇太后亮経正(つねまさ)は、 八歳の時参り始め候うて、十三で元服仕り候ひしまでは、 相労る事の候はんより外は、あからさまにも御前を 立ち去る事も候はざりしに、今日より後、西海千里の浪に 赴いて又いずれの時帰り参るべしとも覚えぬこそ、口惜しく候へ。 今一度御前へ参つて、君をも見参らせたう候へども、 既に甲冑を鎧ひ弓箭を帯し、あらぬ様なる装ひに罷りなつて 候へば、憚り存じ候」とぞ申される。御室あはれに思し召し、 「ただその姿を改めずして参れ」とこそ仰せけれ。
幼少の頃は仁和寺の御堂(覚性法親王)の御所に稚児(ちご)姿でお仕えした者なので、
こんなあわただしい中でも、(その記憶が強くよみがえり、)お名残惜しく思い出して、
侍五、六騎を召し連れ、仁和寺に馬を馳せた。
門前で馬から折、申し入れられたことは、
「わが一門の運命もいまや最後で、今日早くも帝都を去ることになりました。
憂き世に思い残す事とては、ただ君へのお名残りばかりでございます。
八歳の時初めてこちらへ参り、十三で元服いたしますまでは、
病気の床にもつかぬかぎり、少しの間も御前を離れませんでしたが、
今日から後は、西海千里の浪の上に赴いて、またいつの日、いつの時
帰ることになろうともわかりませぬのは残念なことでございます。
もう一度御前へ参り、君にもおめにかかりたくは存じますけれど、
すでに甲冑を身にまとい、あられもない服装になっておりますので、ご遠慮申し上げます」
こう申された。(武装は寺にふさわしくないため:筆者注)
守覚法親王(しゅかくほつしんのう)はあわれに思し召されて、
「ただそのままの姿で参れ」とおっしゃった。
経正、其の日は紫地に錦の直垂に、萌黄匂の鎧著て、
長覆輪の太刀を帯き、切斑の矢負ひ、重藤の弓脇に挟み、
冑をば脱ぎ高紐にかけ、御前の御坪に畏まる。
御室やがて御出あって、御簾高く揚げさせ、「これへこれへ」
と召されければ、大床へこそ参られけれ。
共に具されたる藤兵衛有教を召す。
赤地の錦の袋に入れたる琵琶持つて参りたり。
経正これを取り次いで、御前にさし置き、申されけるは、
「先年下し預かつて候ひし青山持たせて参つて候。
余りに名残は惜しう候へども、さしもの名物を田舎の塵になさん事、
口惜しう候。若し不思議に運命開けて、又都へ立ち帰る事候はば、
其の時こそ猶下し預かり候はめ」と泣く泣く申されければ、
御前あはれに思し召し、一首の御詠をあそばいて下されけり。
あかずして別るる君が名残をば後の形見につつみてぞおく
経正御硯下されて、
呉竹の筧の水はかはれども猶すみあかぬ宮の中かな
経正、その日は紫地の錦の直垂(ひたたれ)に、萌黄匂(もえぎにおい)の鎧を着、
長覆輪(ちょうぶくりん)の太刀(たち)を佩(は)き、切斑の矢を背負い、
重藤(しげとう)の弓を脇に抱え込み、冑をぬいで高紐(たかひも)にかけ、
御前の御中庭にかしこまった。
法親王(御室)はすぐにお出ましあって、御簾(みす)を高く揚げさせ、「これへこれへ」
とお召しになったので、経正は大床(おおゆか)に上がった。
共に連れていた藤兵衛有教(とうびょうえありのり)を召すと、
赤地の錦の袋に入れた御琵琶を持って参った。
経正はこれを受け取って、御前にさし置き、申させるには、
「先年お預かりいたしました御琵琶青山(せいざん)を持参いたしました。
名残は尽きぬ品ではございますが、
これほどの名器を、田舎に埋もれさすことは残念でございます。
もし不思議にも(平家の)運命が開けて、再び都へ帰るようなことがございましたら、
その時こそはまたお預かりいたしましょう。」
と泣く泣く申されると、法親王もお心をおうたれになり、一首の和歌を書いて下された。
あかずして別るる君が名残をば後の形見につつまれてぞおく
(別れがたく思うそなたの思い出として琵琶を預かるぞよ)
お硯を下されたので、経正は御返歌を書いた。
呉竹の筧の水はかはれどもなほすみあかぬ宮のうちかな
(御所のご様子は、かつて私のお仕えした覚性法親王の時とは
変わっておりますけれども、名仁和寺御所は筧の水も澄んでいて、
心引かれることでございます)
(経正が当初仕えたのは先代の法親王だったので:筆者注)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
続きは次回に・・・・
補注:仁和寺 京都市右京区にある真言宗の寺。
宇田川天皇が出家後ここに御室を営んで住んで後、
代々の住職に法親王が補せられたので御室(おむろ)の別名をもつ。
(筆者より:平家物語の内容は今回、ほぼはじめて読みながら調べています。
間違いなどございましたらお気軽にコメント欄へご教授ください。)
参考文献:
平家物語 巻第七 経正都落 平家物語全注釈 角川書店
底本 市立米沢図書館蔵、旧林文泉文庫蔵の「平家物語」
平家物語82) 日本古典文学全集 小学館
図説 日本の古典 平家物語 集英社
文頭画像は箱表紙図
![]() | () 商品詳細を見る |
kinkunさん、こんにちは。
コメントをいただきありがとうございます。
実は・・『経正』の存在を知りませんでした。早速「観世流謡曲全集〜経正」と「日本古典文学大系〜経政」ざっと調べました。
『呉竹の・・』そのまま出ていますね。「能楽百番〜経政・平凡社」には修羅物には珍しい一場の小品だが、美しく哀切な佳作〜とありました。後日ゆっくり調べてみたいと思います。
お能は解らないことばかりですが、とても興味があるので、少しずつ学びたいと調べています。楽しく読んで頂けるような記事にできたら良いなと思っています。また、お気軽にアドヴァイスお願いいたします、とても励みになりました。
2008.05.25 15:51 URL | 丹桂 #S2b0Fqvo [ 編集 ]
丹桂さん、こんにちは。
楽しく拝見しています。能『絃上』の前に能『経政』の話になるのかと思いました。
『経政』は、ほとんど平家物語そのままなので、背景とは言えませんが…。
観世流では、『玄象』同様に、この能も『経正』に改めています。
続きを楽しみにしています。
トラックバックURL↓
http://mugenkyuu.blog4.fc2.com/tb.php/48-0d521ffb
